Contents
日ロ交流モスクワ写真展 〜不滅の友愛〜

はじめに
日ロ交流写真展〜不滅の友愛〜と題された写真展がロシアにて執り行われます。 2018.11.17か2019.1.14まで。 一般社団法人チャンクスは、この日ロ交流写真展の沼津市戸田側の窓口を担当しております。 ロシアと戸田。 なんの関わりもないと思われるこ両地域の友好関係は実は根強く、その元となる出来事が、今から遡ること155年ほど前に起こったのです。 以下は 戸田造船郷土資料博物館資料 海洋政策研究所「日本最初の洋式船「戸田号」の建造とロシア人との友好」 日本船主協会「日本に近代造船技術をもたらしたロシア軍艦ディアナ号の遭難事件」 を参考にさせて頂いております。ディアナ号の沈没、プチャーチン提督来航
今から遡ること155年ほど前の嘉永6年(1853年)7月、ロシアの使節プチャーチン提督は、軍艦4隻を率いて長崎に来航し、国書を長崎奉行に提出し出航した後、再び、翌年1854年10月、ディアナ号単艦で下田に入港しました。その目的は、北海道・千島・樺太方面の国境問題を解決することと通商条約を結ぶことでした。 ところが、11月4日の朝9時ごろ安政の東海大地震(マグニチュード8クラス)が起こったのです。 下田港内に碇泊していたのディアナ号は、津波で艦底を破損し激しく浸水し、乗組員にも死傷者が出てしまいました。そこで沈没の恐れもあり修理が急ぐ必要がありましたが、下田では対立していた英仏の軍艦に見つかる危険があったため、伊豆半島の浦々を調査した結果、御浜岬が突き出ており内側は砂浜で良湾であること、三方が山に囲まれていて交戦国の英仏の目に触れにくいという理由などから戸田浦(田方郡戸田村)を修理地として決定しました。 ディアナ号は戸田浦へ向かうため下田を出航したが、途中で大シケに遭い、戸田と反対方向へ押し流され、宮島村(富士市)沖合でついに沈没してしまいました。 しかしながら日本人の献身的な救助活動により1名の死者もなく全員上陸できたのです。 上陸したロシア人約500名は陸路戸田村へ徒歩で入りました。 プチャーチンやスリゲート公爵など上官は宝泉寺を宿所とし、士官は本善寺に、他の者は付近に長屋4棟を急造して3カ月余の戸田村の生活を始めたのです。 プチャーチンは宝泉寺に百余日滞在し、日露交渉に当たる一方、造船を指揮しました。5回の会談の結果、12月21日には下田長楽寺で日露和親条約の締結に至ったということです。日本最初の洋式船「戸田号」の建造
ディアナ号が沈没したため、代わりの船が必要になりました。 そこで、造船場所として戸田港牛が洞が船の建造地として決定されました。設計は技術将校モジャイスキー大尉指導の下、工学士や士官が担当し、さらに日本人の大工さんが協力することになりました。 設計は、所持品の中にあった雑誌『海事集録』が参考にされました。 日本側も西洋式造船術を会得する絶好のチャンスとして積極的に協力しました。 設計図が出来てからは昼夜問わずの突貫作業だったようです。日本側からは戸田の7人の船匠(船大工の棟梁)、船大工約40人、人夫150人が招集されました。 日本側は洋式船を造るのは未経験で未詳であり、直接帆船の建造に参加したのはこれが初でした。 この船の建造を開始したのは1854年(安政元年)12月24日。 作業は設計から100日余の翌年の安政2年3月15日ころに竣工しました。 プチャーチンにより「戸田号」と命名されたこの船は2本マストの帆船で87トン、50人乗りで建造費は3100両2分と記録されています。 プチャーチンと部下47人は、3月22日この戸田号で帰国の途につき、7カ月後の11月末に首都サンクトペテルブルグに到着しました。 戸田造船資料室リンク戸田村とロシアの人々との友好
滞在中のロシア人に対しては、「もらうな、やるな(与えるな)、つきあうな」という禁制があったにもかかわらず、戸田村民は人情豊かに面倒をみたそうです。 マホフ神父の記録の中にも、 「かれらは客好きで善良である。オランダ人以外の外国人を入国させないという法をまげてまで、私たちを愛想よく迎え、住居を提供して、生活に必要なものをすべて持ってきてくれた。かれらは友情に厚く同情心に富み、私たちは滞在中、誰一人として侮辱を受けた者はいない。常に好意と尊敬を示し、日本を去るときにも友情を示し別れを惜しんでくれた」 と記されています。友好の証

ロシアより戸田へ寄贈されたディアナ船員衣装

戸田港祭り2018





